高  取  町  の  歴  史  
区分 項  目 要          約 関連歴史遺跡
近代 プロローグ   徳川幕府が崩壊し、大政が奉還され、新政府により廃藩置県が断行され、武士の時代は終焉しました。列強諸国と対等になるため、日本は中央集権国家への道を歩み始めました。それは古代飛鳥時代に豪族諸連合国家から、中国や朝鮮半島諸国と伍するため律令国家を建設した古代為政者の先祖返りでもあります。                  
その1

古代における高取町の医薬の歴史
  薬と高取町の関わりは遥か飛鳥時代にまでさかのぼります。日本書紀に推古天皇二十年五月五日、高取町羽田で薬猟(くすりがり)が行われ、数多くの王臣や女官達が紀路を通り、飛鳥の小墾田宮から羽田(はた)へ赴いたとあります。古代に付近は、朝廷が渡来人よりもたらされた薬草を多く栽培しており、薬草の効能を書いた中国の「本草集注」が伝えられ、それにのっとり薬草を調整し、病気の治療に当たっていたものと思われます。
  薬が一般に販売されるようになったのは吉野に朝廷のあった南北朝時代以降といわれています。やがて販売は次第に拡大されていき、江戸元禄の頃にはすでに全国各地を行商(売薬)していたといいます。
波多甕井神 社と薬猟

神農薬祖神 
その2

大和高取町の売薬業
  明治維新の大変革があり、高取の城下町も山間の一小都市に転落し、武士階級も禄を取り上げられ、その生活は窮乏するようになっていきました。生活にあえぐ士族の救済と、また衰退する城下町の復興策として、士族・町民・農民挙げて、古代よりゆかりのある製薬・売薬に命運をかけ「薬の高取町」として不死鳥のごとく蘇りました。
  製薬と売薬は表裏一体であり、売薬行商の努力と成果が製薬業を拡大し、薬に従事する人が多くなり、町が発展していきました。
薬の町散歩 道

薬資料展示 室
その3

高取町出身の俳
人「阿波野青畝」の活躍
 明治になり、正岡子規により近代俳句が確立され
、高浜虚子に受け継がれます。そして、虚子から
高取町出身の阿波野青畝により昭和・平成へと、
子規が文学的生命をかけてやかましくいった写生
は、脈々と生き続けます。
阿波野青畝の句碑巡り